さなえちゃんとの出会い-1
2002年5月27日、その日は私が大きなチャンスを得ることになった忘れることの出来ない記念すべき日になりました。
それは、友人からの誘いで、彼女の家に私と同じように誘いを受けた人たちが集まった日です。
友人もまた、別の友人から“さなえちゃん”という人を紹介され、私たちに“うれしいこと”のバトンを手渡してくれたのです。
声を掛けていただいたのは、私を含め女性二人、男性二人の四人でした。
もちろん、私たちは顔馴染みでしたが何か雑談しながらも上の空で“さなえちゃん” という人がどんな人で、また、どんなお話しをし、お聞きすることが出来るのかと、お昼頃から心待ちにしていました。
そして、やっと友人宅の玄関から明るい元気な声が聞こえたのは陽も暮れかけた頃でした。
皆さんが遠慮がちにしている中、最初に“さなえちゃん”の前に挨拶に出たのは私でした。
そして手を触れたのでした。
早く話しをお聞きしたいと誰もが声には出さず“さなえちゃん”の言葉を待っていました。
しかし、“さなえちゃん”は、私たちに遅れたことのお詫びの言葉を残し、そのまま奥のキッチンへ行ってしまい、私たちの前にゆっくり座ることはありませんでした。
そうこうしているうちに、皆さんが次々と帰り支度を始め、不思議に感じるくらい、いそいそと帰ってしまったのです。
「成功するお話を聞きに来たのではなかったのかしら?・・・」残念に思いながら、一人残ってしまった私も支度を始めるしかありませんでした。
私は支度をしながら、それでもまだ「お聞きしたい!」と心で叫んでいました。
すると、友人と“さなえちゃん”が、「急ぐの?」と、ほとんど同時に奥から声を掛けてくれたのです。
「急ぐなんて、とんでもないです!」
さなえちゃんとの出会い-2
時折、友人からの電話でさなえちゃんの噂は耳にしていました.
さなえちゃんのことを話すときの友人の声は、いつも夢心地で “ふわ〜ん”として、それは、今となっては小説の中でしかお目にかかれないような “恋する乙女”を連想させるほどでした。
反面、何かはわからないまでも、それまで友人からは一度も感じたことのなかった “測り知れない大きなものを手にしたような、パワーと自信“ が言葉の端々から伝わってきていました。
夢のようなことが急速に起こっている友人の話を聞きながら、「私もお目にかかってみたいな〜・・」 「・・・いいなぁ〜」 とため息がでるばかりでした。
そして、受話器を置いても暫らくは、自分自身が益々情けなくなるばかりで立ち上がることも、まして口を開く気力も失(う)せてしまうほど、ただただ友人を、羨(うらや)んでいました。
とてもその時の雰囲気からは、私がこうしてお誘いをいただけるとは思いもよらなかったのです。
そんな私でしたから、お声をかけて頂いたその時から天にも届きそうなほどうれしくてウキウキと心躍らせ、この日を心待ちにしていました。
今朝は、“さなえちゃん”にお目にかかりたくて、家事もそこそこに、お話をお聞きしたくてたまらない思いを胸に、幾たびの電車の乗り換えも、ものともせず、心は駆け足でやってきたのです。
さなえちゃんとの出会い-3
皆さんが帰られてから“さなえちゃん”が話してくださったことは、今でも心に残って忘れることが出来ません。
『120パーセント自分が変りたいなら、、、
本気で(真剣に)心から願い、想ったら変われない人は一人もいない。
誰でもがなりたい自分になれるのよ。』
なんだか、神さまのようなお声に聞こえました。
この、 『誰でも』 と言う言葉を、私は聞き逃しませんでした。
まるで、一瞬にして目の前が“ぱあ〜”と光り輝いたように明るく感じました。
さなえちゃんとの出会い-4
この日、この時以来、私の運命は大きく変化し開いていったのです。
しかし、そのとき 一つの約束 ごとがありました。
その約束ごととは、さなえちゃんから、
『今現在、お付き合いしている人たちと暫くの間距離をおいて欲しい』 とのことでした。
もちろんそれは、この日 “さなえちゃん”を紹介してくださった友人も含めてのことでした。返事の有余は一週間でした。
結果は、
その日から半年くらいの時間が掛かりました。
その年の2002年10月6日から私は、“さなえちゃん”を師に学び、『氣づき』、そして、『思い出す』 ということの、その楽しさ、うれしさ、驚き、感動、感激の時間がスタートしました。
普段さなえちゃんが話している中から-1
『教えるすべはなし』さなえちゃんはいつもそう言うのです。
「教える術(すべ)など何ひとつ持っていない」と。
しかし、話している中から『言葉から、語っているなかから何かを感じ取ってほしい・・・』と。
さなえちゃんの“語り(教え)”はとても簡単で、強制・強要が一切ありません。
私自身が知る限り出会ったときから今日(こんにち)に至るまで誰に対してもそれは一貫して同じでした。
しかし、人が望むそれぞれの成功、また、年齢、性別、環境によって話す内容のニュアンスが違うことはあります。
それは言葉の違いでした。
時として矛盾を感じることもありました。
しかし、理解できないときは、さなえちゃんが話した内容だけ(言葉)憶えておいたらよいのだと思っていました。
私は、それ以上深く考えませんでした。
解らなかったことも暫くすると、突然に『これだっ!』と実感し、理解する日がやってきたからです。
理解できたときの私の心は、説明の仕様のない不思議の世界に引き込まれたように、驚きと喜びで言葉にならないほど感嘆しました。
『氣づく』 ということはこういうことだったのです。
私自身、ひとつのことに「あっ!」と氣づいたとき、幾重にも絡まっていた糸がスルスルと解けるように夢、目標に向かってスピードが増してきました。
それはまさに、さなえちゃんを師として行動を起こしてから、あと数日で半年が終わろうとしていたときでした。
普段さなえちゃんが話している中から-2
『自分自身を信じて進む』、このことがどれほど心がワクワクして楽しいことなのかわかってきました。
『成功』 とは人と比べたり、競うことなど、何一つ必要がないことがわかるようになりました。
成功とは心の平穏であり、私自身が望む成功はもうすでに用意されていたからなのです。
一度しかないこの人生を活かすことなく、自身を過小評価して生きることは、謙虚でも、まして、美しい行為でもあるはずがないことにも氣づきした。
むしろ、怠慢な生き方であるかもしれません。
頭ではなく、それは、心に正直に、素直に感じたままを遠慮することなく行動に移すものだと理解しました。
自身の心に正直に素直になると、ストレスもなく健康までも手にすることが出来きてくるものなのです。
さらに、心に素直に行動することは、自身の心が満たされ、自身の喜び、幸せを、他の人にも惜しむことなく自然体で分かち合いたくなってしまうのです。
そして、人と喜びを共にすることで、自身の夢、目標は日に日にスピードを増し、より一層、豊かになることもわかりました。
これも、私自身が体験させて頂いています。
しいて、心掛けることは、それは “自我“ ”我欲“ に溺れてはならないことですね。
普段さなえちゃんが話している中から-3
しあわせは(成功)求める人、すべてに用意されているのです。
ですから、さなえちゃんが言う『誰でもが』なのです。
『誰でもが』ですから難しい訳がないのです。
『誰でもが成功(自身が望む)することができる』ということが簡単で、さらに強制・強要がなければ夢のように嬉しいはずと私自身は思うのです。
ところが、チャンスを望んでいても、いざその場になると『私にはありえない』などと、素直に(心に素直)耳を傾けることもなく、打ち消してしまう人 が多いことを、いまさらのように感じています。
誰でも、輝かしい才能を持って生まれてきているのに・・・。
何かをする為に、何かを経験したくって生まれてきたはずだと思うのです。
『誰』ではなく自分自身を信じて『やってみようかな・・・』と、行動に移す人がお一人でもいらしたら私は心からエールを送りたいと思います。
真実(ほんとう)の成功とは?
よく言われている成功とは、三つの富を得ること。
経済的成功、社会的成功(地位名誉)、そして心の成功(精神的)があります。
この三つの中でどこから始めるのがよいのでしょうか?
それは心の成功からでした。
最初、私自身も、そんな悠長なことはしていられないと思いました。
しかし今はそれがすべての基(もと)となり、遠回りのようですが最短で成功への道であることがわかりました。
そして心の中で育った『夢』、『目標』はより大きくなり揺れ動かないことも知りました。
振り返って思うことは、
まず始めの一歩を踏み出し実践ができたことは『誰でもが』と言う言葉と、半年間という『期間』であったことが大きな要因でした。
その時、一年あるいは三年掛かる、と言われたらこの行動を起こしていたかどうかは定かではありません。
今現在、お付き合いしている人たちと
今現在、お付き合いしている人たちと暫しの間距離をおく
心から真剣に成功したい(自身が望む日常)と決めたならば、実行してみてください。
なぜなら、すぐ目の前にとても楽しいことが大波のように押し寄せて来ていることを発見するからです。
ある日、
さなえちゃんを紹介してくださった友人から電話がありました。
「暫くの間、仕事以外では連絡をしないけれど気にしないでね・・・。」
それは日頃、一緒におしゃべりを楽しんでいる友人のいつもと変わらぬ軽やかで明るい声でした。
それなのに何故か、余分な言葉を発してはいけないような空気を心に感じ、私はただ、言葉少なく返事をしたことを憶えています。
まるで、この広い世界にたった一人行くあてもなく取り残されてしまったような、そんな寂しい気持ちでした。
そして、、、、私も、その後、その友人に 仕事以外の連絡 はやめました。
次に、今度は、さなえちゃんから直接言われました。
「ご紹介くださったお友だちも含めて・・・」と、言葉を足して・・・。
その時、あの日の友人からの電話を思い出し、理解しました。
そして、、、、、私は、実行に移しました。
それから暫くして、今度は私自身が、友人が私にしてくれたように、私も別の友人に、さなえちゃんを紹介させて頂きました。
やはり、さなえちゃんは同じことを友人に言いました。
『今現在、お付き合いしている人たちと暫しの間距離をおいてほしい』 と・・・
しかし、私の友人は実行できませんでした。
私はというと、 実行させて頂きました。
何故、これが重要なのでしょうか?
ひとつは、成功(自身が望む日常)するには環境(生活・友人・仕事・思考)を変えることが必要だったからなのです。
もし、今の環境で自身が成功していると感じているならば、今の環境が最高なのでしょうね。
しかし、
長い間その中にいて成功(自身が望む日常)ではないと自身が感じ、『成功したい』と心から望んでいるならば、今現在の環境、思考(言葉)を全て変えてみることがとても必要なのです。
中には、部屋の模様替えをするだけでよい人もいるでしょうね。
または、服装、ヘアースタイルを変えるだけでよい人もいるかもしれませんね!?
しかし、
ほとんどの人はまず思考(言葉)を変えることが必要だと解かりました。
同じ趣味、思考の中にいると心も安らぎ、居心地がよいものです。
しかし、成長したい、もっと学びたいという思いが沸々と湧きあがったとき、自ら(みずから)、一般教育から専門分野へ進むように、場所・環境を替えることは特別なことではないはずです。
私自身が、周りの友人たちの思考を変えることは時間が掛かります。
特に友人が多いという人はそうです。
ですから、
自身の方から一時的に友人たちと離れてみるのです。
しかし、
自身が望む成功がそこにないのがわかっても、慣れた居心地のよい現状に今まで通り浸っているのも、また、夢を抱いて未知の世界に進むのも、自身が決めることです。
もし、
友人に相談しても、決定を下すのは氣づいていないだけで自分自身なのです。
他の誰でもなく自分自身が決めているのです。
また、さなえちゃんにこんなことも言われました。
「・・・でっ、どうしたいの?成功したいんでしょ!?」
「過ぎ去った時間を悔やんでどうするの!?」
「二度と戻ってこないのよ!!」
「経験としてこれから活かすのよ!」
「引きずることではないの!」
「楽しかった過去を懐かしんで今がよくなるの?」
「うまくいかなかったことばかり考え悔やんでいても前に進めないでしょう!?」
「失敗はないの!! 氣づいたら、思い出したら 今までのことはみんなこれから必要な経験なの!」
「今日という日は二度と戻ってこないのっ!!今を楽しまなくてどうするの!!」
目をしっかり見据(みす)え、矢継ぎ早に言われ、私は返す言葉がありませんでした。
成功したいと口にはしても、 「でも」とか、「だって」 の言い訳ばかりしていました。
今、思えば少しもわかっていなかったのです。
解かっていたら行動が起こせたはずなのです。
頭で知っていただけなのです。
そして、
現状から抜け出すほんのわずかな 勇気 がなかったのです。
もし、
成功を心から望んでいるならば、素晴らしい未来に目を向け、過ぎてしまったことへの感謝の心を忘れず振り返らないことです。
たとえ、思い出してもすぐ 打ち消したら それでよいのです。
無理に忘れようとしなくても、有難いことに時が清算してくれることもたくさんありました。
もし、
『変わりたい』と思っても、心が揺らぐようであったなら、まだ何ものにも譲れない夢・目標が決まっていないということなのでしょう。
私は、私自身に本当に必要なアドバイスは(目・耳から入る多くの情報)友人たちとの親交を断って、たった一人になったときから、正しくはっきりと感じ取れるようになりました。
それは、周りがよくないのではなく、多くの人の意見を耳にすればするほど、迷い、疑いが生(しょう)じ、 『私は、どうしたいのか?』 という肝心の『真(ほんとう)』を、見失っていたのです。
今では私は、心に余裕ができ、必要な時間も充分に取れる満足のいく日常生活になりました。
ですから、
心から真剣に、『変わりたい』と望んだ人は 誰でもが できるはずです。
そう、 大丈夫です。
夢・目標を持つということはそういうものだともわかりました。
一生懸命と真剣は別もの
『真剣に心から思った(望んだ・願った)ならば・・・』
『一生懸命』と『真剣』という意味の違いを私自身が氣づいたのは、さなえちゃんに出会い、教えて頂いたことを実行し始めて少し経ってからのことでした。
ある日突然、日頃何気なく使っている『一生懸命』という言葉がまったく別ものということに氣づいたのです。
たとえば、仕事を『一生懸命している』のにあまり成果が上がらないときがあります。
また同じことでも、短時間で済むときもあります。
このときが『真理に沿って行った』、『真剣にした』のだとわかりました。
『一生懸命』という言葉に、何か『追い立てられているような見えない力』があることに私は氣づいたのです。
物事を『一生懸命』することは『やらねば!』とか『しなければ!』と思う心で行動するので、『したくない!』、『嫌だ!』という反対の強い力も、一緒に働くということが解かったのです。
だから『一生懸命』しているのに、はかどらないのです。
それは、プラスとマイナスの棒磁石が左右の両極が引き合っているのと同じで、前に進むことに時間が掛かるのです。
これも、言葉が持っている力(エネルギー)によって起こる心の想いが(潜在意識)事象になった一つだと思います。
私自身がそれに氣づいてからは『一生懸命』ではなく、『真剣』あるいは、『精進(心が望んでする・楽しんで頑張る)』という言葉を好んで使うようになりました。
思いなしか肩の力が抜け、力むことなく自然体で心までゆったりしてくるものなのです。
『師』と言うと、さなえちゃんは心底嫌がりますが、年齢を超えて、やはり氣づかせてくれた『師』であることは私の中では生涯変わらないと、私は今も心から思い感謝しています。









